冬の名残が残る3月に屋上で昼食を取るという行為は寒さ以外の何も得られないと思っていたが、意外にも日の当たるその空間は温かく、コンクリートもそれ程までに冷たくはなかった。どちらともなく地面に腰を下ろすと、予想していたよりは温かいとはいえ未だ春を迎え切れてはいない気候のためか、僅かにひんやりとした温度が身体に伝わってくる。しかし、柵の向こうから吹いてくる風が、真冬に身体を震わせたそれと比べてひどく生温かく感じられたことで、僕はぼんやりと春の訪れを予感した。


 当たり前のように僕の隣に座って、包んでいた袋から弁当箱を出している彼女を見ると、にこにこと嬉しげに顔を緩ませていた。そんなにもお腹がすいていたのだろうかと思いながら、僕も今朝母に渡された弁当を取り出す。互いに相手が昼食の準備が整ったことを確認すると、彼女がにこりと口角を上げたのを合図に両手を合わせ「いただきます」と声を重ねた。


さん、今日は随分と少ない食事ですね」
「え、そうかな?」
「弁当箱の半分しか埋まっていないじゃないですか」


 彼女の二段になっている弁当箱には、いつも上段におかずが、下段には三つのおにぎりが入れられてることを僕は知っている。そのおかずとおにぎりが、今日は下段の弁当箱の中に数を減らして詰め込まれていた。視線を移せば、入れられる筈だったおかずを入れて貰えずに彼女の足元に置かれた空のもう一つの弁当箱が目に入る。


「……実は、ちょっとダイエットを始めようと思いまして」
「何故ですか」
「何故って。荒井さん、察してください」


 さんは恨めしそうに目を細めて僕を睨みつけると、深いため息を一つついた。余程深刻なことなのか、それとも余り触れて欲しくない話題だったのか、彼女は暗い翳を落としたまま小さく口を開けて噛み締めるように弁当のおかずを食べている。僕のような男には分からない心境なのかもしれない。分かる男(ひと)がいたとしても、僕には到底理解できない心理状態なのだろう。そもそも、特に太ったようにも感じさせない彼女の外見を見せられて、僕に察してくれというのはおこがましいことだと思うのだが。


さん」
「…はい」
「僕のベーコンアスパラをあげます」
「え、荒井さん私の話聞いてました?私、ダイエット始めるんですよ?」
「それならば食事を減らすのではなく運動量を増やしてみてはいかがです。きっと健康的に痩せることができますよ」
「なんて尤もなことを言ってくれるんですか」
「分かっているのでしたら、馬鹿みたいに食事を制限するのは止めた方がいいのでは?」


 言いながら、僕は自分の弁当箱に入っていたベーコンアスパラと胡瓜(きゅうり)やキャベツ、そしてそのキャベツの隣に隠れるようにして置かれていたミニトマトを、さんの足元に手放されていた空の弁当箱に移していった。


「……荒井さん、何どさくさに紛れて嫌いなものを回避しようとしてるんですか」
さんのために野菜系を選んだ結果、こうなっただけです」
「いやいやいや、騙されませんよ。荒井さんトマト嫌いなだけでしょう」
「僕は好物のアスパラも差し上げましたよ」
「…そもそもいりませんから。ダイエットしますから」
「頑固ですね」
「固い意志を持たないと成功しませんから」


 僕は渋々ベーコンアスパラを手元の弁当箱に戻すと、刺さっていた爪楊枝を抜いてそれを口に運んだ。多少冷えていてもアスパラの歯応えはいつも変わらず僕の味覚を満足させてくれる。隣でさんがトマトも食べてくださいよと口煩く言っているが、一度彼女の弁当箱に入ったおかずは彼女のものだと自分自身を納得させて僕は聞かぬふりをした。一噛みするごとに、口内にアスパラの味と食感が広がっていく。


 ふと、先程弁当箱を開ける前に彼女が浮かべていた幸せそうな表情を思い出す。あんなにも顔の筋肉を緩めて柔らかい笑みを携えていたというのに。それ程までに昼食を楽しみにしていた様子だったのに。
―――何故、ダイエットなどというくだらないことをしようと考えてしまうのだろうか。食べることに幸せを感じているにもかかわらず、どうして彼女はその欲望を押し込めてまで痩せようとするのだろうか。彼女の体型に関して特に不満を持っていない僕に彼女の思考はやはり理解できそうにもなかった。



 そういえば、
―――僕は半分くらい食べ終わった弁当箱と箸を徐に避けて地面に置くと、それまでさんと並行させていた身体を動かして捻り、じっと彼女を見た。見られていることに気付いて、さんは箸を銜えたまま何事かと動きを止める。


さん、今のあなたを見ていて一つ思いだしたことがあります」
「何ですか?あ、ダイエットしてリバウンドした人の話とかは嫌ですよ」
「……いえ、違います」




 じゃあ、聞きます。


 彼女のその一言で了承を得た僕は、ぽつりぽつりと話を始めた。こうして誰かに話を語ると言うのは、あの夏の日の集会を思い出す。あの時も僕はこんな風に抑揚のない声で、後輩の男の子に七不思議の一つとして怖い話をした。彼は僕の話を聞いてひどく、
―――ひどく僕自身を怖がっていたように感じられたが、今から話を聞かせる彼女は一体どんな反応を示してくれるのだろうか。真剣な表情で僕の話を待ち構えている彼女の、少し先の表情や感応を想像して密かに胸を躍らせた。願わくば、話し終える頃には二度とダイエットをしようなどと考えないと誓ってくれればいいのだけれど。
















では話を始めましょう。
さん、あなたがこの学校に来て二か月が経ちましたが、家庭科室に行ったことはありますか?
……そうですか。いずれ機会があって訪れることもあるでしょう。
 

確か2年になって初めての調理実習で使用する筈です。
僕もそれで初めて家庭科室に入った記憶があります。
作ったものですか?
後数カ月もすれば分かるのですから、今はどうでもいいと思いますが。
それに、作るものが同じかどうかは分かりませんし。

 
…マドレーヌですよ。
作るものがものなだけに、女子達がざわめいていたのを覚えています。
心なしか男子もそわそわと落ち着きがなかったように思えます。
いつもは煩く騒いでいる輩も、この時は口数を少なくしていました。
同じものを作る筈なのに、どうしてこうも違った反応をしてしまうのでしょうか。
僕ですか?
……あなた、僕が落ち着きなく騒ぎ立てるようなくだらない人間に見えますか?
僕には興味のないことでしたから。
作るものも、それに踊らされて心情を馬鹿みたいに晒してしまう彼らにも。


あなたはどうでしょうか。
作るものが同じとは限りませんが、もし同じものだった場合、どんなことを考えるのでしょう。
―――誰に、完成したそれを渡そうとするのでしょう。
いえ、なんでもありません。


少し話が逸れてしまいましたね。
その家庭科室に纏わる話をしようと思います。
前置きが長かったですか?
あなた、少し眠たそうな顔をしていますよ。
胃が消化活動を始めたから、ですか?
あなたは随分と本能的な人間なんですね。
それでは、あなたが完全に意識を手放してしまう前に本題へ入りましょう。

 
その前に、一つ質問をしてもいいでしょうか。
さん、何故ダイエットを始めようと考えたのですか?
……ええ、先程も訊きましたが、明確な答をいただけなかったのでもう一度訊いてみたのですが。
そうですか、やはり答えてはいただけないのですね、残念です。
 

では、僕があなたの動機を予想してさしあげます。
あなたはどちらかというと短絡的で、よくいえば素直、悪く言えば思慮に欠ける性格だと僕は思っています。
どうせ、誰かに言われたのではないですか?
―――最近少し太ったのではないか、と。


……ひひひ、何をそんなにも驚いているのですか。
は…?凄い?何を言っているのです。
…どうして分かったのか、ですか。
それはあなたの思考が短絡的で……いえ、止めましょう。


女性は自身の体型の変化に敏感だと言われていますからね。
男性ならば、体重が1キロ程度変化しようとも、気にも止めない人の方が多いのではないでしょうか。
ましてや、グラム単位での変化になど気付きもしない筈です。
身体の質量を図る体重計に乗るのは、年に二回おこなわれる健康診断時のみという人もいます。
それほど、男性にとって自分の身体の重さというものはどうでもいいものなのでしょう。
勿論、例外はあると思いますが。


しかし、体重計の示す数値に関して、女性はそう気楽に考えられないようですね。
さんもそんな女性の一人なのでしょう。
…別に悪いことだとは思っていませんよ。
考えなしに食べ過ぎて、細田さんのようになられては僕も困りますから。


ちなみに、さんはどのくらいの頻度で体重を量りますか?
……何故僕を睨むのです。
体重を訊いたわけではないのですから、別に失礼なことは訊いていないと思いますが…。
 

分かりやすくあなたの例を挙げて話を進めたかったのですが、では仕方ありません。
一般的に女性が体重計に乗る頻度を、週に三回程度と仮定しましょう。
この場合、一か月で約十二回も体重を量っていることになります。
……その顔からして、あなたもこの程度のペースのようですね。


では、一般的な思考から外れた女性の場合はどうでしょうか。
自分の体型が気になって気になって仕方がない、例えばモデルや女優など、己の美を売りに仕事をしている方達。
職業的な理由から、彼女達が普通の女性よりも自身の体型や体重を気にしていると考えられます。
おそらくは週に三回などといわず、彼女達は毎日のように体重計に乗り、
その身体に変化がないか確認しているのではないでしょうか。
そうなると、月に三十回は体重を量っていることになりますね。
あくまでも、僕の仮定では、ですが。
 
 
あなたはどう思いますか?
いくらなんでも頻繁過ぎるだろうと思いますか?

 
……そうですか。同意していただけますか。
では、話を続けましょう。
 

あなたがこの学校に転校してくる丁度一年ぐらい前に、柚子川萌黄(ゆずがわもえぎ)という女性が、あるファッション雑誌の専属モデルとしてスカウトされた、という噂が広まりました。
僕は当時まだ一年生で、柚子川さんは三年生ということもあって、彼女を見たことはありませんでした。
 

あなたも知っているとは思いますが、鳴神学園はこの通り数千人の生徒がいて、余程のことがない限り、縁のない人と知り合いにはなれません。
同級生にもかかわらず、顔も名前も知らぬまま卒業と共に永遠に別れてしまうといったことも稀ではありません。
学年が違えば、その可能性はより高まります。
―――僕とあなたはその可能性から外れてしまったようですが。
僕達は例外に当てはまってしまったのですね。


しかし、柚子川さんと僕は例外ではありませんでした。
噂が流れなければ、僕は彼女の名前さえ知らずにいたことでしょう。


その噂を教えてくれた友人が言うには、 柚子川さんはとても綺麗な方だったようです。
そして、鳴神学園ではそこそこ有名な人らしい、ということもその時初めて知りました。
……僕らしい、ですか?
そうかもしれません。
僕はあまり他人に興味を持つことはありませんしね。
知らない人ならば、尚のこと。

友人は彼女がモデルにスカウトされたという噂と共に、彼女のことも僕に教えてくれました。
僕としては、彼女がモデルにスカウトされたということも、彼女自身についてもあまり関心はなかったのですが。
…息荒く彼女について語る友人を、僕は止めることができませんでした。
友人は彼女のファンだったのかもしれません。




「柚子川さんは女神のように美しい」




彼はそう言って目を輝かせていました。
…岩下さんよりも、ですか?
確かに彼女も美少女として多くの男子生徒から支持されているようですね。
 

どちらが、というあなたの疑問に僕は答えることはできません。
僕は柚子川さんに会ったことがありませんから。
ええ、そうです。
僕は結局彼女に会うことはなかったのです。


しかし、柚子川萌黄という人間の情報は、望む望まずに関係なく、彼を介して僕の耳に入ってきました。
彼は僕が一人で本を呼んでいるにもかかわらず、いつも彼女の話を勝手に始めていました。
 
 
彼女の美しさについて。




彼が話す内容はいつもこの一点に集中されていたといっていいでしょう。
如何に彼女が美しいか、その素晴らしさを僕に知って欲しかったようです。
毎日毎日、彼は僕の読書を妨害するように語りかけてきました。
僕がお気に入りの小説を読んでその世界観に浸っている時も、彼はお構いなしに僕に彼女の話をしました。

―――正直、うっとおしかったですよ。
いえ、うっとおしいという感情では収まりませんでした。
衝動的に、殺してやりたいとすら思ったこともあります。


……不安げな顔をしないでください。
別に、本当に殺したわけではないのですから。
尤も、もし殺していたとしても、僕は後悔していないと思いますが。
ひひ、ひひひ。


しかし、彼が僕に殺されなかったのには理由があります。
一つ、興味深い話を聞いたのですよ。
その話を聞いたのは丁度、柚子川さんの噂が本当だったと分かった頃でした。


―――そういえば、まだ彼の名前を言っていませんでしたね。
彼は二之宮和彦(にのみやかずひこ)という名前でした。
あなたが彼の名を覚える必要はありませんよ。
あなたが彼に会うことはないのですから。
 

いえ、聞き流してください。


…柚子川さんですが、彼女は本当にモデルとしてスカウトされ、それを受けたのだそうです。
一躍彼女は時の人となりました。
全校生徒が彼女の名前を耳にしたことでしょう。
二之宮君によってその事実を知らされた僕も、例外ではありません。


それでも、僕が彼女に興味を示すことはありませんでした。
漸く二之宮君もそのことに気がついたのでしょうか。
いつもは饒舌に彼女のことを話すのに、その日の彼はやけに元気がなく、頭を垂れさせていました。
 


「最近、柚子川さんの様子がおかしいんだ」




彼はそれだけ告げると、勝手に口を噤んでしまいました。
僕達の間に暫く沈黙が走ります。
丁度それは放課後だったこともあり、状況的には僕が望んでいた静寂が訪れたといっていいでしょう。
しかし、僕もそこまで冷たい人間ではありませんから。




「…どうしたんだい」




一言。
たったその一言を待っていたように、二之宮君は勢いよく頭を上げると、まるで堤防が決壊したように喋り始めました。
破堤し、氾濫した彼の口は矢継ぎ早に言葉を繋いでいきます。




「柚子川さんが、休み時間の度に家庭科室に行くようになってしまった」




へぇ
―――僕は短く相槌を返します。
どうやら二之宮君は少し前から、学校で自由になる時間の殆どを使って柚子川さんに会いに行っていたようです。
僕は自ら進んで彼を気に掛けることはありませんでしたから、気付かなかったのでしょう。
 

…会いに行くといっても、二之宮君が柚子川さんに話しかけることはありませんでした。
二之宮君は分かっていたのです。
彼女に近づいても、自分が相手にされることはないということを。
細田さんのようにとまではいいませんが、二之宮君は体系的に少し太り気味の少年でしたから。
彼はそんな体型をコンプレックスに感じていたようです。
だから、二之宮君は必要以上に柚子川さんに接近することを避け、離れて彼女を見守ることにしたのです。
 

見守るといえば聞こえはいいかもしれませんが、付き纏われていた柚子川さんにとって、彼の存在はどう映っていたのでしょうね。
 

彼もそんな自分の行動を理解していたのか、負い目を感じたそうです。
柚子川さんは自分の視線に気付いて怖くなり、家庭科室に逃げ込んでいるのではないかと。
それでも、二之宮君は彼女を追い続けました。
そして、三つの疑問がわいたそうです。


まず、何故、一人でそこに足を運ぶのか。
自分を気持ち悪がっているのだとすれば、一人で行動しないだろうと考えました。
友人と共に行動すればいいし、彼女が頼めば男子生徒を護衛に引き連れることもできでしょう。
しかし、彼女はいつも一人で家庭科室へ向かったのです。


次に、何故、家庭科室なのか。
自分から逃れようとしているのだとすれば、毎回同じ場所に移動していれば意味がないだろうと考えました。
それこそ、家庭科室には常住している教師もおらず放課後まで開けっ放しにされていましたから。
保健室でも、職員室でも、身を守ろうとして選択できる場所は他にも幾つかあります。
しかし、彼女は他の場所になど目もくれずに、いつも一直線に家庭科室へ向かったのです。


そして最後に、何故、毎日家庭科室から塩を持ち出すのか。
どうやら柚子川さんが家庭科室に通っている理由はその塩にあったらしいのです。
僕としては、どうしてそれが塩だと二之宮君に分かったのか
―――そちらの方が疑問でしたが、あえて彼の話に口を挟むことはしませんでした。
二之宮君は更に、その塩を柚子川さんが持ち出すのは1限目後の休み時間の時もあれば、昼休み、放課後の場合もあると加えて言いました。
明確にいつ持ち出すか決まっていないのだそうです。
いえ、決められなかったのではないかと彼は言っていました。
彼女の持ちだしている塩は何か特別なもので、それは彼女の意志で好き勝手に持ち出せるものではないのだろうと推測していました。


彼女は家庭科室に行っても、そこに長居することはありませんでした。
家庭科室を一周すると直ぐに出てくる時もあれば、数分滞在して出てくる時もあったそうです。
しかし、休み時間中家庭科室にいることはありません。
そして、数分滞在下場合のみ彼女は塩を手に持って出てきました。


おかしい。二之宮君はそう感じたのです。
だからといって僕にそんな話をする意味があったのかどうかは分かりませんが。
話を終えると、彼は聞いてくれてありがとうとだけ告げて教室を去って行きました。
その足が家へと向かっていたのか、それとも柚子川さんを求めて家庭科室へ向かったのかは知りません。
気付けば教室に一人取り残されていた僕は、静まり返った教室に薄ら寒いものを感じて直ぐに学校を後にしました。


それから暫くして、柚子川さんは学校を休みがちになったそうです。
二之宮君が残念そうに僕に教えてくれました。
モデルの仕事が忙しいのだろうと告げる彼の目は、何故か不安で満ちているように思えます。







そして更に数日後、柚子川さんが亡くなったことを知りました。
ええ、二之宮君が僕に教えてくれたのですよ。
しかし、時の人であった筈の柚子川さんが死んだというのに、誰も彼女の死を話題には挙げてはいませんでした。
二之宮君だけが、僕に助けを求めるような眼つきで震えながら彼女の死を悲しんでいたのです。


……いえ、悲しんでいたのかどうか分かりません。
怯えているようにも見えました。




「荒井君、お、おれ、見てしまったんだ、塩が、塩が、塩が、塩がしおがシオがシオガシオガ…」




狂ったようにカチカチと歯を鳴らしながら、二之宮君は涙目で僕に訴えてきました。
彼の異常な態度に、教室中の視線が僕達に
―――いえ、彼に注がれます。
僕は初めて読んでいた本を机に置くと、二之宮君を連れて教室を出ました。
丁度こんな風に二之宮君を屋上に連れてきて隣に座らせると、僕は彼にこう訊きました。




「…どうしたんだい」




以前彼に言った一言を、僕は再び口にしました。
すると、二之宮君は一度深く呼吸をすると、掠れた声で柚子川さんの死に関して話しだしました。



柚子川さんが学校を休み出してから、彼女の姿を見れずに満たされなかった二之宮君は彼女が学校に来た日に、こっそりと彼女の後をつけたのだそうです。
彼は考えたのでしょう。
学校で会えないのならば、家まで会いに行けばいいと。


どうやら柚子川さんは二之宮君の存在に気付いていなかったようです。
そうと知った彼は、抱いていた筈の負い目を見失うことで堂々と彼女の後をつけることができました。
彼女の家は閑散とした住宅街の中にあったそうです。
人通りも少なく、電灯も少なかったため、彼女に気付かれずそこに辿り着くことは難しくありませんでした。


驚いたことに、二之宮君は家を知るだけでは飽き足らず、なんと敷地内に侵入したそうです。
今日は久しぶりに彼女を眺めていられる
―――彼女と時間を共有できる特別な日だから。
彼は自分にそう言い聞かせて、一軒家の庭に入りました。
見付からなかったのかいと訊くと、彼女の両親はその日たまたま留守にしていて、彼女は一人だったから大丈夫だったと言っていました。
二之宮君が彼女が独りっきりの日を狙って家に忍び込んだのかどうかは知りません。
ただ運が良かっただけかもしれませんし、あるいは
――――


彼は本当に見ているだけでした。
こっそりと物陰に隠れて、只管彼女を見ていたのです。
彼女がカーテンを閉めてしまい、その姿を隠してしまった後も、直接彼女を見ることはできませんでしたが、彼女が存在しているであろう場所を探して、じっと彼女を見詰めていました。


どれぐらいの時間が経ったのでしょう。
今まで見詰めていた空間の電気が突然消えました。
ああ、眠ってしまうのだろうか。
別れの時間がきてしまったことを悟り、彼はがっくりと肩を落としました。


……彼の絶望にも似た感情は、直ぐに晴らされることになります。
今度は別の場所に明りがついたのです。
そして聞こえてくる、水音。
二之宮君は瞬時に状況を理解すると、新しく明りがついた場所の近くへ移動しました。
胸を小さく、躍らせながら。


そこには小さな小窓があり、まだ冬の名残が残っているにもかかわらずそれは僅かに開かれていたそうです。
彼は躊躇うこともなく小窓の先の光景を見ようと、目を細めてその隙間へと近付きました。




女神の全てを見ることができる。




しかし、彼の目に飛び込んできたものは、女神と呼ぶにはあまりにも禍々しい光景でした。
頬を上気させた柚子川さんの顔は、彼が崇め称えたように、いえ、それ以上に美しいものだったそうです。
水滴が彼女の頬を伝います。
彼は彼女の肌を伝って落ちるその雫を目で追いました。
頬から首へ、首から胸へ、胸からお腹へ
―――――
視線を下方へと移すにしたがって、彼は表情を青く変化させていきます。


胸と顔、首と手を除く他の全ての部位に、肉が全くついていなかったそうです。
死と直面した老人でも、もう少し肉付きがいいのではないかと思わされるほどに痩せこけた身体。
彼女は、女神として……いえ、人間としても、ひどく歪な身体をしていました。
二之宮君の瞳には、もはや柚子川さんの美しい顔など映されてはいません。
嗚咽を漏らしそうになる口を両手で必死に抑えて、彼は彼女の身体を凝視し続けました。
見たくない、見たくない、見たくない、見たくない。
ですが、目を逸らすことはできなかったのです。
彼女は干乾びた身体を洗い終えると、徐に何かを取り出してそのへこみきったお腹に擦りつけ始めました。



あの家庭科室から持ち出した塩だ…。



その擦りつけている何かが、何故あの塩だと分かったのか。
それは彼にも分かりませんでした。
しかし、強い確信を持てたのです
―――あの塩以外に、考えられないと。
彼女は身体中に塩をつけると、シャワーを手にとって立ち上がりました。


二之宮君は、ただでさえ大きく開いていた目を更に見開きました。
柚子川さんが立ち上がった瞬間、塩を擦りつけた部位からどろりと何かが溶け出たのです。
ぼとり、ぼとりとその何かはシャワーから噴出するお湯と共に次々と彼女から落ちていきます。


それが彼女のものだった肉の塊だと理解するまで、そう時間はかかりませんでした。
腐敗してどろどろに溶けた肉の塊。


……そうですね、一重に肉といっても様々な種類のものがあります。
それは脂肪だったかもしれません。筋肉だったかもしれません。
内臓だった可能性も捨てきれませんね。
知っていますか?
内臓、はらわた、五臓六腑とも言われている器官の周囲にも、脂肪は溜まっているのですよ。
もし、柚子川さんの使用していた塩が器官の区別なく全ての肉を対象に効果を発揮できるものだったとしたら。
そして、彼女が必要なものと不必要なものを類別なく自分から剥がし捨てようとしていたとしたら……。


事実、彼女の腹部はひどくへこんでいたそうです。
肝臓から始まって、胃、膵臓、十二指腸、小腸、大腸といった消化器官が詰まっているとは考え難いほどにね。
もちろん、そんなことはありえません。
それら全てがなければ、人間として機能できる筈がないのですから。


しかし、彼女は女神だったのですから。
人間を超越した存在ならば、可笑しい話ではなかったのかもしれません。
ひひ、ひひひ。


不思議なことに、柚子川さんの身体から血は流れていませんでした。
代わりに、腐った肉の汁のようなものがゆっくりと彼女の身体を伝います。
先程彼女の頬を流れた雫はあんなにも神聖なものに思えたのに……。
彼が視線を上げて見ると、学校で見守り続けた彼女の美しい顔がそこには変わらずありました。
美しい顔の彼女は、穢れた自身の身体を見て、歪んだ笑顔を浮かべていました。
溶け出て放置されたままの、脂肪とも内臓とも見分けのつかぬ腐肉に囲まれてね。


二之宮君の頬に生温かい液体が伝います。
しかし、それでも彼は彼女から目が離せなかったそうです。




「この塩のおかげで、私はどんな服も着こなせるようになった。でも、どうして骨は削れてくれないのかしら」




彼女が一人呟いた声が、反響音と共に聞こえてきます。
シャワーを止めながら、彼女は徐に胸骨(きょうこつ)と腸骨(ちょうこつ)を抑えました。


さん、ご自分の骨盤を抑えてみたことはありますか?
ごつごつしている……あなたらしい感想ですね。
感触としてはどうですか?
……いえ、僕は決してあなたを辱めようとしているわけではありませんよ。
骨と皮の間に、ちゃんと肉が付いているでしょう?
なにを落ち込んでいるのですか。
人間ならばあって当然なのです。当たり前のことですよね。
しかし、…彼女にはそれが全くなかったのです。


皮だけになってしまったといっても過言ではない彼女の身体は、幾つかの骨が内側から皮を突き破らんばかりにでこぼこと出っ張っていました。
加えて、身を守るための肉すらも持たぬ彼女の皮膚は、彼女自身の骨の出張りによって最大限に引き伸ばされて薄くなっています。
皮だけの彼女の身体は、その皮すらもぶちりと音を立てて裂けてしまいそうでした。
……ビニール袋に沢山の重たいものを入れて持ち上げると、底の辺りが薄く伸びていきますよね?
彼女の身体は、今やそのビニールの限界点を迎えていたといえるでしょう。



ふと、彼女は塩を人差し指にとると、恍惚とした表情でそれをまじまじと見つめました。
そして何を思ったのか、舌を恐る恐る出して、その塩を舐め始めたのです。




「ぎゃあ!!」




叫び声が、風呂場いっぱいに反響します。
彼女はあんなにも綺麗だった顔を苦悶の表情に変え、両手で顔を覆いながらのたうちだしました。
彼女が動くたびに、身体からしか落ちていなかった肉塊が、今度はぼとりぼとりと顔から落ちていきます。




「み、みず……を、
―――――




彼女が力なく浴槽へと近付いてきます。
このままでは見つかってしまう!
最早ぴったりと小窓に顔を押し付けて彼女を見ていた二之宮君は、咄嗟に隠れようと身体を支えていた手に力を込めます。
しかし、既に遅かったのです。
柚子川さんは小窓に顔をべったりと付けたまま、絶命していました。




「う、うわああああああああああああ!!!!!」




二之宮君は、彼女の家に不法侵入し、あまつさえ風呂を覗いていたということも忘れて絶叫しました。
そのまま勢いよく小窓から離れると、よろめきながらも全力で彼女の家から走り出たそうです。
無我夢中で走っている中、脳裏には彼女の顔が焼き付いて離れません。





身体中の全ての水分を奪われて皺くちゃになりながらも、肉がどろどろと溶けだしていた、彼女の醜い顔が。





二之宮君は僕に話をしている間、ずっと泣いていました。
しかし、彼は一通り話し終えると急に立ち上がり、「今日はもう、帰るよ」、と告げてそのまま屋上を去って行ったのです。












そして次の日、彼は学校を休みました。
彼のいない学校では、前日とは打って変わって柚子川さんの話題で持ち切りでしたよ。
彼女が亡くなったということを、彼女のクラスの担任が話したのです。
突然の変死だったということを学校側は隠していたようですが、ほどなくしてどこからともなく彼女の死に関して噂が流れ始めました。


ただ、その噂を二之宮君から聞かされることはありませんでした。
僕は初めて柚子川さんに対して興味を持ち、他の友人を捕まえてその噂について聞いてみたのです。
……皮肉なことだと思いますか?
あんなにも熱心に二宮君が彼女のことを話してくれたのに、僕が彼女に興味を抱くきっかけは、他ならぬ彼女の死によって齎されたのです。





「柚子川さん、自分の体重をすげえ気にしてたみたいだぜ。最近はそんなこともなかったらしいんだが、前は休み時間のたびに保健室へ行って体重計に乗っていたらしい。一日に十回以上も体重量ってるわけだろ…。やばいよな?神経質ってレベルじゃねーぞ」


「あの人、余程自分の体型が気になってたんだな。必死にダイエットしてたらしい。そんな必要もなかっただろうに…」


「でも確か、途中でダイエット止めたんだよな?確か三年の授業で肉じゃがを作った日を境に、とか言ってなかったっけ?」







「モデルの仕事って、そんなに精神的にくるものだったのかな…」


「普通の死に方じゃなかったらしいしね。お葬式の時、誰も彼女の死に顔を見れなかったみたい。誰かに妬まれて、呪われちゃったんじゃない?」


「もしくは、柚子川さんのファンがやっちゃったとか?ほら、好きすぎて殺しちゃう、みたいな」





どこまでが噂で、どこまでが真実なのか。
それは僕にも分かりません。
二之宮君が僕に語ってくれた話すら、もしかしたら全てが彼の作り話かもしれないのです。
噂の中には、彼の言っていた「塩」と関連づけられるような話はありませんでしたし…。


そもそも、その「塩」とは何だったのでしょう。
二宮君の話が本当ならば、柚子川さんが持っていた「塩」はこの学校の家庭科室にあったものということになります。
人の肉だけを溶かして落とし、舐めれば内から全ての水分を奪ってしまう「塩」。
そんな危険なものが、果たしてこの学校の、それもよりによって生徒達が調理をおこなう家庭科室にあるとしたら……。


あなたは先程ダイエットダイエットと口煩く言われていましたが、もしも「塩」を見つけることができたなら、柚子川さんのように嬉々としてその手に取ってしまうのでしょうか。
来年の調理実習で、あなたが「塩」を運良く手に入れてしまったら
―――やはり使ってしまうのでしょうか。
……いえ、これ以上はやめておきましょう。
所詮、全ては憶測でしかないのです。




真実として分かっているのは、柚子川さんが本当に死んでしまったということ。
そして、彼女の死を、唯一彼だけが皆より一日早く知っていたということだけなのですから
―――







え?
その後の二之宮君ですか?
彼は柚子川さんの葬式に出席した後、やっと学校に来るようになりました。
それまでと変わらず、彼は今も鳴神学園に在籍しています。


安心した?そうですか。
あなたと二之宮君は直接かかわりがあるわけではないのですから、
彼がどうなっていようと関係のないことだと思いますけど。
 

柚子川さんが亡くなって暫くは、やはり彼もひどく落ち込んでいるようでした。
追い続けるものがなくなった脱力感からなのか、純粋な悲しみからなのか、
彼は自分の机に着いたまま虚空を見つめていることが多くなりました。
二之宮君が柚子川さんに好意を寄せていたことを知るものは多かったため、
何人かのクラスメイトが代わる代わる慰めや励ましの言葉を掛けてはいたようですが、
彼は視線を彷徨わせたまま力なく頷くばかりでした。
時間が解決してくれるだろう。
皆そう思っていたのでしょう。


……ですが、最近彼の様子が少しおかしいのですよ。
教室でひっそりと柚子川さんのことを偲んでいたかと思えば、ある時を境に彼はまた教室を離れがちになっていきました。


次に好きな人ができた?
…そう考えていた人もいました。
事実、僕も始めはそう思っていたのです。
しかしそれは違っていました。
二之宮君は毎時間、誰かの元に足を運んでいるわけではありませんでした。


そうです。
彼は休み時間の度に、足繁く家庭科室に通っていたようなのです。
そういえば、彼は最近急激に痩せてきたように思えます。
少し太り気味だった彼の体型は、今や僕よりも細くなってしまったのではないでしょうか。
その原因を、最愛の人を亡くしたショックからくるものだという人もいますが、僕にはそうは思えません。


二宮君が「塩」を求めている理由ですか?
それは僕にも分かりません。
しかし、そうですね……僕が思うに、彼は柚子川さんと同じ終わりを望んでいるのではないでしょうか。
柚子川さんを女神と崇拝し、愛していた彼にとって、彼女と同じ死を迎えることこそが幸せなのです。
カリスマ性のある芸能人が死亡した場合、その後を追って自殺する人が稀にいますよね?
ですが、彼は死という終わりを共有するだけでは満足しなかった。
だから、彼は「塩」を求めてしまう。
例えそれが、愛しい彼女を醜く殺したと知っていても。
―――全て、推測の域を出ない僕の想像の話でしかありませんが。
 



さんはどう思いますか?
え?
彼が生きているのなら、何故あんなことを言ったのか、ですか。
 


―――あなたが彼に会うことはないのですから。
 


……そうですね。
確かにあなたは二之宮君に会うことができるかもしれません。
しかし、もしあなたが彼にどうしても会いたいと思っているのなら、急いだ方がいいかもしれませんよ。


何故なら、彼は先週から学校を休んでいるのです。
一応、欠席の理由は風邪とされていますが、本当でしょうか。
もし、家庭科室に彼が通っていた理由が柚子川さんと関係があるとすれば、
―――同じものを求めていたとすれば。
彼がこれからどういった結末を迎えるのか、容易に想像できると思いませんか?

  
そろそろ昼休みが終わってしまいますね。
僕の話はこれで終わりにしましょう。






















「……荒井さん」
「なんでしょう」








  1.「さっきのおにぎり、いただきます」


  2.「私のダイエットとは関係ありません」

























―― To Be Continued.

(20100218)



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