剛球ピッチャーの野球人生

江川卓とは

日本プロ野球界における剛球ピッチャーでありながら、現役時代を通じて
珍しくダーティーなイメージで語られがちだった投手に、江川卓がいます。

周囲の評判を気にしないような、その生き様は、かつてマスメディアなど
を通じて悪評紛々の代表的なスポーツ選手として扱われたことで、今でも
よく知られています。

しかし、実際の江川という人間は、高校時代や大学時代を通じて、周囲を
思いやる優しい男だったというのが、、実際の評価に近い話しのようです。
例えば、法政大学時代に4年最後の試合に先発すれば、東京六大学野球の
最多勝利数で大学先輩の山中正竹氏に並ぶというところで、当時の同僚投
手であった鎗田投手が前々からこの試合の先発として準備していたことを
理由に、最多タイの48勝のかかる試合を監督に申し出て先発を断ったと
いう。その後のプロの生活でも、西本聖に開幕投手の座を何度もか譲って
いたという。勿論このような優しさを江川自身が兼ね備えていたからこそ、
江川は投手として実際に目に見えるような目だった記録を残しえなかった
のだともいえるでしょう。

それも真ですが、ここには江川自身の冷徹に見据えた人生観というものも
多分に影響していて、かつての大投手とされたピッチャーたちが活躍した
昭和30年代においては、20勝や30勝といった勝ち星をわずか1年から2年の
間であげただけで、家は建つわ、不動産を購入できるわ・・・といった人
の一生分の資産を残しえた時代と異なってきました。江川の活躍した時代
に入ってからは、高額の年俸を稼いだとしても税金で半分はもっていかれ
るわ、活躍をしたらしたで、当時のワイドショーなどから息つく暇も無く
オフの生活を干渉されるようになるわ・ ・・との考え方・モノの見方が江
川の心の底流に次第に渦巻いていったといえます。

悪く言えば非常に計算高いともいえそうですが、素直にこの考え方を見れ
ば、テレビ出演などのゲストやら、非常にマスメディアへの露出が目立っ
た時代だからこそ、昔と同様のリズムで動けないことを冷静に見据えた上
での、非常にクレバーな判断ができた投手だったともいえるでしょう。

当然、この考え方には、長短両方の評価が常に付きまといますが、やはり
江川の考え方に一理あるように思えてなりません。野球の方でも、その優
しさから、オールスターでの8者連続三振から大石大二郎にそれまで誰も
当てられなかった速球ではなくなぜかカーブを投げて、物の見事にバット
に当てられて9者連続をフイにしたように、最後の最後で大きな桧舞台を
逃すことも多かったのです。へばってでもというような考え方を持たない
分、目立つか潰れるかといった人生を歩むことは無かったのですが、それ
は先にも述べましたようにまさに「時代の要請」とでもいえるもので、そ
れはまた、“目立つことが嫌い”といった優しい性格の形成にも相通じるも
のがあるのでしょう。

江川の実力からしたら何か物足りない現役時代を送ったと批評されつつも、
一方で、長く野球生活を保つための身体をすり減らさずに大事に保ちながら
も、その後の人生設計を広く視野に入れて、周囲に気を使う、これが今のス
ポーツキャスターとしての名司会、名解説を生んでいるのだと思えます。

桑田真澄とは

江川卓と同様の生き方をした投手として、よくその類似点を指摘されるのが、
桑田真澄でしょう。 巨人入団時の因縁、バブル期の不動産購入で江川同様に
世間を賑わし、 「投げる不動産屋2世」などと江川そっくりの「計算高い男」
として桑田バッシングもそれなりに凄まじかったといいます。

PL学園から桑田への1位指名で、巨人に入りそびれた清原和博も、正直桑田が
憎かったということを最近仄めかしていましたけど、 桑田自身も最近明かし
たように、そこには誤解があったこと、 つまり高校生という一青年にとって
は耐えがたい葛藤と決断があったこと、 何よりも晩年には、メジャーリーグ
のパイレーツにいってまで自身の力を試しに渡米したこと‥ を語っていまし
た。 元巨人でのちメジャーで活躍したガリクソン投手は、そんな桑田の(江
川に通じた)冷静さ・分析能力の高さに打たれ、息子の名前に「クワタ」 と
名づけたように、同僚からの信頼も厚かったこと(江川に対する同僚の評価も
同様だという話しもよく出ている)が、実際の姿として見て取れるかと思いま
す。

桑田は江川のように小早川毅彦にその自慢の速球を打たれて、早くに引退に追
い込まれるということは無かったのですが、晩年まで小さな身体をきめ細かく
保ち、メジャー挑戦など長く現役を続行できたことは、驚異のことだったとも
評価してもいいのではないでしょうか。晩年まで、「落ちるカーブ」ないし「
急降下スライダー」を武器に頭脳的ピッチングを展開していきます。

現在は、スポーツ科学を専攻するために大学院を受験するなど、そのクレバー
な生活設計には話題が尽きません。但し、これも清原が述べていたことですが、
なぜ大学院にしても早大にこだわったのか?、“桑田事件”以来、その後のPL
の後輩らが早大は勿論のこと、長く六大学野球全体からも締め出しを喰らって
いた事実に向き合って、早大以外の大学院に進むべきだったと意見していまし
た。
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