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 やっと、本当の意味で帰ってこられた気がする。
 しばらくぶりの自室の空気を吸い込んで、エステルは思わずほほえんだ。

 机の上には、読みかけの本が城を出たときそのままに積まれていた。一つひとつ手に取りながら、
タイトルもすっかり忘れていたのに気づいて笑ってしまう。

 本は好きだ。今まで自分の知らなかった、いろんなことを知れるから。
 でも本じゃなくても、何かを得る方法はきっとたくさんあるはずだ。


 自分が思うよりも物思いにふけっている時間は長かったらしい。ドアをノックする音に、
すぐに気付くことができなかった。
 はっとしてあわてて返事をすると、ドアが開いてよく見知った姿があらわれた。
「ジュディス」
「ここ、あなたのお部屋ね」
「はい」
 律義に確認するように入ってきた姿を、エステルはほほえんで出迎える。
 それに応えるようにほほえんだジュディスは、部屋に入ってまず高い天井を見上げた。




 人ひとりが生活するにはあまりに広すぎる部屋。
 特に目を引くのが、天井の高さだった。


 実は誰にも話したことはなかったが、初めて城の外に出て、宿屋に泊まったときに
何より気になってしまったのが、天井の高さだった。
 あまり気にしないように心がけたが、いざ寝ようとすると、あまりの天井と自分との距離の近さにやっぱり気になって
ちらちら上を見上げていた。
 しまいには徐々に天井がこちらに迫ってくるようにも思えてきてこわかったものだった。

 そのためになかなか寝付けず、宿の外に出てしばらくは夜風に当たっていたのをよく覚えている。


 そのあと、すぐにユーリが様子を見に来たことも。

 焦って勝手に一人でフレンの所に行かれても困るからな、と笑っていたが、彼なりの気遣いなのは
わかっていた。だからただエステルも「大丈夫ですよ」と答えるだけにした。
 ありがとうございます、と心の中でひそかにつぶやいて。


 彼はいつもそうだ。誰よりも周りを気にかけている。



 ジュディスを来客用のソファへ促して、エステルはその隣りに腰掛けた。
「まだリタは帰って来てないんですか?」
「ええ。カロルが呼びに行ったみたいだけど、すぐに帰ってきて首を振るばっかりだったから。
まだまだ帝都中の魔導器にお熱なんじゃないかしら」
「リタらしいです」

 呆れたように話すジュディスを目の前にいつものように過ごしていると、今日お別れするなんて嘘みたいだと思えてくる。
 こんなやり取りが当たり前になったのはいつからだったろうか。


 記憶を巡らしそうになるのに気づいて、エステルはすぐ姿勢を正してたずねた。
「ジュディスは、このあとどうするつもりなんですか?」
「どうしようかしら。一応ギルドの一員ではあるから、ボスについていくけれど」


 少し間をおいて思案したあと、ぼんやり言うには
「できれば一度ミョルゾに行って、族長様と今後どうするつもりかお話しておきたいわね」
「クリティア族と皆さんと?」
 意外な言葉にエステルが首をかしげると、ジュディスは少し困ったように笑った。
「私はあそこ苦手だけれど、それでも帰る場所のひとつではあるのよ」
 残念なことにね、と首をすくめると彼女はさりげなく話題を変えるように
「あなたは?」と聞き返してきた。


 エステルは視線を足元の影へ落とす。苦笑いするしかなかった。

 やりたいことはある。けれど、その前にやらなければならないことが山積みだ。
 最低でも評議会と騎士団には顔見せを行い、自分がもう皇帝候補ではないということを
報告しなければならない。

 きっとすでにヨーデルから報告は通っているに違いない。
 しかしここで重要なのは、エステル自身が自らの意思と立ち位置をはっきり示すことだった。
 できなければ、永遠にお飾りの姫のまま城の中で一生を終えることになるだろう。


「がんばります。みんなとまた会えるように」
 言葉にすると少し勇気がわいてくるようだった。
 気丈に笑ってみせると、ジュディスもそれ以上は何も尋ねてこようとはしなかった。

 代わりにすっと手のひらを差し出してくる。
 エステルは一瞬目を丸くしたがすぐに笑顔になってその手を握った。

「よかったわ、あなたを殺さずにすんで」
 そう言うと、ほっとしたようにジュディスはやさしくほほんだ。
 


 その表情を見て、気づいたらたずねてしまっていた。

「わたしが頼んだら、ジュディスはそれができると思いますか」
 言ったエステル自身も内心驚いていたが、ジュディスはそれ以上に目を見開いた。


 しかしすぐに冷静な顔になり、まっすぐこちらを見つめてこう答えた。

「しないわね。今、私にあなたを殺す理由はないもの」
「理由があったら、どうしますか」

 不思議なほど落ち着いて話すことができた。エステルは彼女の目をまっすぐ見つめる。



 一瞬張りつめた空気をやわらげるように、ジュディスは瞳を閉じて軽く息をついた。

「残念。あなたを殺したくない理由ができてしまったのよ」

 心底困ったように彼女は肩をすくめたが、どうしても浮かぶ笑みは抑えられないらしかった。
 エステルもつられてくすくすと笑った。



 たぶんこれを伝えるためにわざわざ部屋まで訪ねてくれたのだろう。
 それがわかったからうれしくなってエステルははにかむようにほほえみ返した。



「みんなに、お別れを言わないといけませんね」
「お別れじゃないわ。また会いましょう」



 はい、と応えてソファから立ち上がろうとすると、ふいに閉めていたドアのほうから、
かすかにカリカリと音がするのに気付いた。
 ジュディスと顔を見合わせて、エステルはドアへ近づきゆっくり開ける。

 視線を落とすと、一匹の隻眼の犬が行儀よく背筋を伸ばして座っている。そのどこまでも凛々しい姿に
圧倒されながら、エステルは首をかしげた。

「ラピード」
 名前を呼ぶと相手はすっと立ち上がり、きびすを返して歩き始める。

 わけもわからず自室を振り向くと、様子を見守っていたジュディスは意味ありげにほほんで
真上に指を指した。そしてひらひらと軽やかに手を振る。



「いってらっしゃい」

 はっとしたエステルは「いってきます」と返事をして、あわてて部屋を出ていく。
 そして小走りで先を行く姿を追いかけていった。